4-8.有園が昔、強迫が疑われた症状を改善した体験(1989から約10年)

著者:有園正俊

私(有園)が強迫性障害(当時は、強迫神経症)と疑われる症状になったのは1989年(29歳)の頃でした。何年かかけてほとんど治ったのですが、その経緯を書きます。ただ、現代とは時代が違いすぎますし、自己治療を勧めるものではありません。

(1)強迫性障害の発症

病気になる前は、大学(理工学部)在学中からマンガやイラストの仕事をしていて、卒業後は、イラストレーターを目指し、普通の就職はしませんでした。しかし、イラストだけで食べては行けず、絵の勉強とアルバイトと言うフリーター生活をしていました。
(後になって思えば、大バカです!当時の私に「企業に就職しろ」と言いたい。)

強迫的な症状(精神科で診断を受けた経験がないので、以下、強迫的な症状と書きます。)は、私の場合、急に来たという感じでした。後になってみれば、それまで、いろいろ生活費を切り詰めて、無理した生活を続けていましたし、昼夜逆転して、雨戸もあまり開けず、普通でない生活が続いていたことなどが、関係していたのではと思います。しかし、当時の私は、まさか自分がという感じでした。その時は、まだ自分が何の病気になったのか、わかりませんでしたが、何か精神的にまずい状態になってしまったとは、気づいていました。

最初は、外出しては、歩きながら、「何か大事なものを落としやしないか」心配で確認してしまうようになりました。気になった場所に戻って、落としていないかチェックする。それを何度も繰り返すので、時間がかかるようになりました。ついには、仕事を終えて、自宅に帰える時間が、いつもの3,4倍かかってしまい、かなりまずいと思いました。
確認する場面は、外出以外でも、どんどん広がっていきました。着替えるにも、服の裏表、ポケットなどに何かついていないか入念に確認していました。雨戸や窓を閉めるにも、うかつに閉めると、その間に、何か外へ落としてしまいそうで、避けるようになりました。

自分のするいろいろな行動に自信がなくなってきて、加害恐怖も生じました。自分のしたこと、提出したものがきっかけで、相手に何か重大な迷惑をかけてしまわないか過剰に心配し、責任を感じていまし、それを防ぐために、また確認するようになったわけです。

イラストの仕事にも支障をきたすようになり、やっと受注できるようになった仕事の依頼も断らなくてはいけないようになりました。
初めは、自分がどうなってしまったのかわからず、何かすると、悪化してしまいそうな気がして、一時、身動きできず、外出しなかった時期があります。自宅に閉じこもった期間は、一番長くて1ヶ月くらいでしたが、それではまずいと思い、少しずつでも外に出てみるようにしてみました。

また、ごみを捨てるのも何か大事なものが捨ててないか気が気でなくなり、確認するようになりました。その確認に時間がかかり、捨てられないゴミが部屋の中に溜まっていきました。
しかし、強迫的な症状が始まった年は、長雨の時が多く、それにカビが生えて、自分の持ち物が次々にカビで汚染されてしまい、カビの菌も気になるようになりました。その時は、異常な繁殖状況にどうしていいか、知識もなく、かといって、捨てるのに時間がかかるので、一気に捨てることもできず悩んでいました。

当時は、カビが自分の部屋以外の他のものに広がらないように、それらしき物を触った後は手を洗ったり、関係するものを消毒や除菌するようになりました。そして、加害としての除菌・洗浄の強迫行為をするようになっていきました。当時の私は、トイレや地面の汚れは平気でも、カビらしきものを過剰に気にして、除菌し、冬など手も荒れていました。
後から考えれば、当時は、自分の部屋の雨戸をろくに開けもしない生活だったので、カビにも強迫的な症状にもよくなかったわけです。

ただ、ゴミは溜まるとよけいストレスですし、カビに汚染されたため、捨てざるをえなくなりました。当時は、ゴミ捨て場に、ゴミを持っていく前に、ゴミ箱のゴミを全部、一つずつ出して、広げて入念に確認し、別の袋に入れ直していたのですが、この作業は苦痛で、時間もかかりました。
ただ、ゴミ捨ては、1日に少ししかできなくても、外出とともに自分に課した毎日の義務として、取り組むようにしていました。外出が習慣になると、もう二度と症状が最悪なときに戻りたくなかったので、かなり天候の悪い雨や雪の日でも外に出て歩いていました。

そして、家庭の事情で、その家を転居しなくてはならないことになり、よけい捨てざるをえなくなったわけです。結局、数年かけて、自分の持ち物のかなりを捨ててしまいました。

自分の部屋で、体長1mmくらいの虫も目につくようになり、これは何なんだと思っていました。かなり後になって、これはチャタテ虫で、カビを食べて増える虫だとわかりました。チャタテ虫は、少数ならどこにでもいて害がないのですが、増えて室内のあちこちで目にするようになり、明らかに異常な状況でした。
・・・この辺の経緯は、拙著「よくわかる強迫症」、「外へ出ませんか」のあとがきにも、チラッと書いてあります。

(2)森田療法の応用したら、後に知った行動療法と似たような結果になった

外出が困難ですし、収入が止まり、貯金を切り詰める生活だったのでお金に余裕もなく、受診も敬遠していました。当時の精神病院は、気軽に行けるような場所ではないという思いがありました。宇都宮病院事件とかあった時代で、普通の病院と違って、陰気で怖いイメージでした。後になってわかったのは、当時は強迫性障害については、有効な治療法(SSRI*,行動療法)が首都圏ではなかったので、もしそ精神科に行ったとしても、効果は期待できなかったのではと想像しています。(*日本で最初にSSRIとしてフルボキサミンが発売されたのは1999年。SRIであるクロミプラミンは発売されていたが、強迫性障害に効果があるとどの程度知られていたか疑問のため。)

ただ、私は理工学部出身だったので、記録をつけ、できるだけ自分の状況を客観的に把握しようと、システム図を描いてみました。(私の症状が治ってから知った認知行動療法でのセルフモニタリングと同様のことをしていたわけです。)
その後、たまたま見たテレビ番組で、初めて強迫神経症という病名を知りました。そして、外出やゴミ捨てなど、症状によって苦手になっていることへの対処を1年近く続けた頃、徒歩での行動範囲が広がりました。

当時は、約1年ぶりに、行けなかったお店に入れたり、銀行のATMで、以前働いたお金の入金を確認できた時など、「やっとできた」という新鮮な達成感のようなものが、そのたびに、感じられました。
当時は、実家に住んでいましたが、交流のある友人はまったくおらず、孤軍奮闘、地道に努力していました。
その頃、加害恐怖がありましたが、自転車に乗れるようになりました。そこで、3kmくらい離れた図書館に行けるようになりました。(この時点では、まだ電車に乗ることは無理でした。)
図書館で岩井寛「森田療法」講談社現代新書に出会いました。その本で、自分と似た症例を見つけ、それが治ると知ったときは、希望が見えて、ワラをもつかむ気持ちでした。そして、読んで、とにかく試しました。どんどん貯金も減っていくし、家を転居しなくてはならなったので、森田療法の本にある恐怖突入の課題を設定して、それに平日は毎日、挑戦していました。

恐怖突入というのは、認知行動療法の曝露反応妨害に似ています。ただ、森田療法は、森田正馬自身の体験に基づいているとはいえ、論理が概念的です。そこで、私は自然科学の手法で、自分の状況をシステム的に図に描き、その都度、問題点を見つけるようにしていました。後で知った認知行動療法で、アセスメントした情報をケースフォーミュレーションするような作業をしていたわけです。
そして、その問題の本質に合うよう課題を設定し、実行してみていました。
当時は、試行錯誤しつつ、実行していましたが、当時は、サイバネスティックスや、物事をシステム的にとらえる学問を知っていたので、それらを応用して、どんどん軌道修正していきました。そのおかげで、症状が改善できました。

そして、それを続けてある程度期間がたった頃には、このまま行けば、病院に行かなくても治るという目安がたったので、結局、行きませんでした。ですので、正式な診断は受けていませんし、当時は服薬もしていません。
ただし、独力での治療を他の人にも勧めるわけではありません。今までOCDの患者さんだけで、おそらく千人以上の人に関わってきましたが、独力では改善が無理な人が大部分です。
私が当時、行っていた方法は、認知行動療法と共通の部分が多かったので、現代では認知行動療法を勧めています。
当時の私は、試行錯誤していたので、改善まで年月がかかっていますが、その後、患者さんを仕事で治療する側になってからは、強迫症の患者さんへの治療期間はかなり短いケースが増えました。ただ、患者さんによって、治療期間の個人差は大きいです。

(3)仕事へ復帰

症状がある程度、減った頃(1990年代前半)、私は、1日数時間程度のアルバイトから仕事に復帰していきました。初めはパソコンの仕事でした。パソコンのような主に一人でする仕事では、つい強迫の確認のパターンが現れてしまいがちでした。

1990年代半ばには、強迫的な症状は、かなり減りましたが、何割か残っていました。
しかし、私は、この頃、家族の問題も抱えていて、仕事ぶにも、かなり制約がありました。そのため、しかたなく自宅から自転車で通える畑違いの某運輸会社でアルバイトを始めました。
この仕事は荷物を仕分けるのが主で、体を使うのと、集団で行うこともあって、強迫的な症状の改善には合っていました。
また、仕事をして、毎月の収入が少しずつでも安定してくると、生活の安心感もできました。「もし千円札を落としたら」と考えるのでも、収入がないときと、あるときとでは、千円の重みが違うので、落としていないか確認するのも、切迫感が和らいできた理由もあると思います。
また、この仕事は、繁忙期は、非常に忙しく、始めは1日2時間から始めたのですが、だんだん慣れるにつれ、就業時間を増やしてもらい、トラックの運行管理や、メール便の事務もするようになりました。
そのうち、忙しさで確認など強迫行為をしている余裕などなくなって行き、残っていた強迫的な症状も次第に消え、いい方に回転していきました。
この集団での仕事の経験があったからこそ、今までの治療法の知識を応用して、完治できたと思います。しかし、もし症状が重かった段階で、この仕事に就いていたら、挫折していたでしょうから、いいタイミングで仕事の波に乗れたのだと思います。
この運輸会社には、約4年いて、退職する頃には、強迫的な症状が、ほぼ卒業と言っていいレベルにまでなっていました。

当時の私は、自分の病気以外にも、家族の問題を抱えていて、その解決は大変で10年以上かかりました。
運輸会社にいた頃から、イラストレーターに戻ろうとしていたのですが、困難な体験をしてしまうと、イラストやデザインに対する考え方が変わってしまっていました。強迫的な症状が重かった頃の私は、外見が異常でも、なりふり構わず、散歩やリハビリをしていたので、価値観が変わり、外見やデザインにあまり興味が持てなくなっていたのです。

(4)福祉と精神の仕事

イラストレーターに復帰する前から、家族の問題で、いろいろな相談機関を利用しているうちに、NGO、NPO、市民活動などのボランティアをするようになりました。そのうち、精神障害の作業所の職員の方と知り合い、2001年(40歳)頃から、その作業所(その後、小規模通所授産施設)で非常勤職員の仕事をしました。
その後、その法人が運営するグループホームの世話人(非常勤)をしました。
そうこうしているうちに、イラストの仕事を辞め、高齢者介護や障碍者福祉の仕事をし、美術講師(専門学校、障害者施設(精神・知的)、高齢者デイケア)などをしつつ、精神保健福祉士の資格を取り、通信制の大学で、心理学を学ぶようになりました。

2006年より、東京でOCDお話会を始めました。心理関係の学会に参加したり、資格をとって、(公認)心理師としての仕事に移行していったわけです。